ペインター・エフの黄身

歌ったり絵を描いている人の中身

明日が世界の終わりではなくても「Yes」は心に響く

明日は来て当然なものという認識の中生きてきた。

さほど大きな病に伏せることもなく。

大きな災害にもあわず。

いつ終わるかもわからないなんて意識しながら生きたことなんてあったかな。

そんなん生きた心地しないし、自分には耐えられそうもない。

今日を大切に生きることと、明日は無いかもしれないと思うことは別だよ。

逆に知りたい。無駄に生きるってどういうことよ。

だらだらしたって生きている。

疲れて漂ってたってそれは自分がそうしたいからしている。

その結果自分で決めたことが結果できてなくたって、

それは明日に繋げる休養だと割り切る。

ロシアンルーレットやってんじゃないんだよ。

死刑囚でもないんだよ。

なんでこうも追い詰められたような気分にならなきゃいけないんだよ。

 

なんて思いつつ最近はよくよぎる。

「明日が世界の終わりなら」

 

二度と会えなかったらどうしよう。

気持ちばかりが募って終わり。え?まじで?

そんなことばかり考えるようになっていた。


明日が世界の終わりなら。

そう思うことが多くなればなるほど、

自分の出した勇気が、間違っていなかったと踏める。

 

今一番に自分の思いを届けたい人と束の間だったけど会えて、

最後に言われた言葉が「No」ではなくてよかったな。

重荷にならない程度の贈り物を添えつつ、

ほんの些細な話から差し障りのないように

無理くり自分から引き出したような「Yes」だし、

気持ちを受け入れられたような甘いニュアンスを含んだ「Yes」とはアンドロメダほどかけ離れた「Yes」には違いない。だけど。

正直、回覧板を隣の家に届けて「あいどうも」と言われたようなニュアンスだけど!!!(我ながら例えがうまい)

 

それでも

「Yes」で良かったな。

もしあの時「No」だったら、その場に崩れ落ちてしまったかな。

わからんがとにかく。

とにかくよかった。

良かったなあ。

今、どう思われてるのかわからないけど、生きていた。!間違いなく。夢じゃなく現実に自分と同じ時間軸の上に生きていた。

 

「Yes」

 

「Yes」

 

「Yes」

 

ジョン・レノンがオノヨーコに初めて出会った日の「Yes」のエピソードがめぐりまくった一日だった。